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1983年 ポーラとの出会い

1983年、私はカナダでポーラ・リッシュマンと出会いました。

編み物がただ好きだった私にとって、その出会いは後にニットの世界への深い関心へとつながる転機となりました。

ハウスキーパーとして滞在していたリッシュマン家のリビングに、見慣れない糸玉がありました。それは毛糸ではなく、毛皮から作られた糸でした。その衝撃は今でも忘れられません。

 

「毛皮を糸にして編む」

それまで考えたこともなかった発想に驚き、すぐにでも編んでみたい衝動に駆られました。

 

私が編み物をすることを伝えると、ポケットに使用していた毛皮のピースをファーカバーに縫い付け、残りは自由に使ってよいと言われました。私はモチーフを編みつなぎ、部屋のマットを制作しました。

それを見たポーラは驚き、その後さまざまな編み仕事を手伝うようになりました。手編み機が使えることを伝えると、革を巻いた綿糸でベストを編む仕事を頼まれました。

 

さらに革の端切れをいただき、ハサミで糸状に切る方法を教わって、自分用のキャミソールを編みました。その作品はとても喜んでもらえました。

毛皮や革を編むことで、私の中のニットの世界は大きく広がりました。

ポーラは独自の技術でファーヤーンを生み出し、手編み機で編める形へと発展させていました。

 

後にカナダ毛皮業界で女性として初めてCEOを務めることになる彼女は、優れた起業家であり、同時に自然を深く愛する人でもありました。

彼女が生み出す色には、植物や風景など自然の名前が付けられていました。

 

また、有害な定着剤を使わない研究を重ね、自然への負荷を減らす取り組みも続けていました。数え切れないほどの色のひとつひとつに、自然への敬意が込められていたように思います。

ポーラは私に、

「あなたは世界を目指せるニットクリエイターになれる」

と言ってくれました。

当時の私は、その言葉の重みを十分に理解していたわけではありません。それでも、その言葉は心のどこかに残り続けていました。

私の進んだ道はポーラとは少し違っていました。

ポーラは多くの人が作れる技法を広め、産業へと育てました。一方で私は、誰にも編めない構想を追い続け、作家としての道を選びました。

けれど創造する喜びや、素材の可能性を信じる気持ちは、どこかでつながっていたように思います。

ポーラはよく、

「私はノックしただけ」と言っていました。

新しい扉を開くのは本人であり、自分はそのきっかけを与えただけだと。

また、

「旅は学び」とも話していました。

ポーラの出産に合わせてメキシコへ同行する話もありましたが、私はその機会を辞退し、ヨーロッパへ向かうことを選びました。

当時の私は、編むことだけでなく、世界のニットをこの目で見たいと思っていたのです。

 

その後、ヨーロッパ、エジプト、アジア、オーストラリアへと旅を続けました。

結婚・出産を経て編み物の制作販売を少しずつ始め、1993年に十津川村へ移住してからは、編み地の追求に没頭しました。

ポーラ・リッシュマン社と日本とのビジネスも順調で、毎年来日するようになり、1995年には山奥の十津川村まで訪ねてきてくれました。

私はアシスタントのような形でポーラを手伝い、ファーヤーンを提供してもらいながら、軽やかな感覚のニットファーの編み地創作に夢中になっていきました。

1999年、個展の準備のため久しぶりにカナダを訪れ、改めてニットファーの素材の可能性を知りました。

この時は小学4年生だった息子も連れて行きました。短期間ながら現地の学校に通い、インクルーシブ教育に触れ、日本との違いを体験できたことは、まさに「旅は学び」そのものでした。

多様な素材を編み込む私自身のスタイルと、多様性を認める教育のあり方が、どこか重なって見えたことを覚えています。

振り返れば、ポーラは私にとってマザーアースのような存在でした。

自然から学び、創造することを楽しみ、自ら道を切り開く。

人生に「たられば」はないと思います。けれど、もしポーラに出会っていなけば、

私が人生を編み物に費やしたかどうか分かりせん。

仮にニットの仕事をしていたとしても、それはまた別の形になっていたでしょう。

彼女との出会いは、今も私の中で静かに生き続けています。

仕事を終え、ビーバーを纏い北海道へ。

ファーヤーンとの出会いについては、note「素材との出会い|ニットへの道標」に綴っています。

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